萩に行って産業革命遺産を見てきた

2016-03-06から2016-03-09の4日間、山口県萩市に滞在した。とくに明治日本の産業革命遺産に関して中心的に見てきたので、それ関連のメモと感想。

明治日本の産業革命遺産とは

Wikipedia によれば、

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業は、2015年の第39回世界遺産委員会でUNESCO世界遺産リストに登録された日本の世界遺産の一つであり、山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県に点在する。西洋から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代から1910年(幕末 - 明治時代)までに急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する文化遺産であり、稼働遺産を含む世界遺産は日本では初めてとなった。

というもの。

とくに萩からは、萩反射炉恵美須ヶ鼻造船所跡大板山たたら製鉄遺跡萩城下町松下村塾の5つの遺産が登録されており、今回はこれらを訪問した。

製鉄関連施設 - 大板山たたら製鉄遺跡、萩反射炉

大板山たたら製鉄遺跡は、江戸時代に利用されたたたら製鉄の遺跡。たたら製鉄というのは、スタジオジブリの「もののけ姫」に出てくる製鉄方法で、木材を燃料に用い、人力でふいごを動かして鉄を溶かす。木材が大量に必要になり、また近くの浜田市付近で砂鉄がとれたため、こんな山奥の地に作られたとか。

f:id:sobataro:20160312205620j:plain ↑大板山たたら製鉄遺跡における、製鉄炉の跡地。

ここで作られた鉄製品 (釘とか) が、後述する恵美須ヶ鼻造船所跡で建造されたロシア式の軍艦「丙辰丸」に用いられた。日本古来の伝統的な技術で作られた釘が、西洋式の軍艦建造に用いられたということで、日本の急速な近代化における過渡期を代表するような遺跡なのだと思う。

一方の萩反射炉は、江戸末期の1856年*1に、西洋式の大砲鋳造のために萩藩が築造した製鉄炉。反射炉というのは、石炭などの燃料と、精錬したい銑鉄とを別々に置き、炉内での熱の反射や高温のガスによって金属を溶かすもの。これによって、燃料由来の不純物が銑鉄に混入することを防ぎ、また銑鉄の融点である1200℃を超える温度まで加熱できるため、従来の製鉄法 (たたら製鉄とか) と比べ純度の高い、粘り気のある強い鉄を作ることができるようになった。

f:id:sobataro:20160312211451j:plain ↑萩反射炉の煙突部分。上部の赤い部分はレンガ。元々は漆喰に覆われていたらしい。写真左側を山陰本線が走っており、車窓からも見えるはず。

萩藩としては、この反射炉によって大砲を作りたかったらしいのだけど、どうも実用には供されず、試験炉として終わったらしい。理由は不明。。。

造船所跡

恵美須ヶ鼻造船所跡は、萩反射炉のすぐ近くにある造船所の跡地。1856年にロシア式軍艦「丙辰丸」を、1860年にオランダ式軍艦「庚申丸」を、それぞれ建造している。とくに丙辰丸は、萩藩にとって最初の西洋式軍艦であった。

f:id:sobataro:20160312212223j:plain ↑造船所跡。正直言ってなにもない。NPOの方が無料で説明をしてくださったおかげでイメージがわいたけど、それが無かったら結構ながっかりポイントだと思う。。。

ここでは軍艦を2隻建造しただけで、その後は放置されてしまった。これは1863年、萩藩が藩庁を山口市に移してしまい、これに合わせて主要施設も瀬戸内海側へと移転してしまったため。造船所といったら、建造する船に合わせて随時拡張し、操業を始めた頃のドックなんかは跡も残っていないものだと思うけど、このような事情によって遺跡が残ったようだ。

城下町と松下村塾

萩城下町は……あまりちゃんと見ていない。

f:id:sobataro:20160312213917j:plain武家屋敷跡地の夏みかん農園 (というか、農園にあった桜)。夏みかん栽培明治維新後の武士救済のために始まり、当時は夏みかん5個で米1升の価値があり、「夏みかんの木3本で子供を上級学校へ通わせられる」というほどだったらしい。今では普通のみかんの方が高価で、商業としての栽培は廃れてしまったとか。

f:id:sobataro:20160312213544j:plain ↑萩城下町の主要部とは少し離れているのだけど、一応当時の雰囲気のある旧湯川家屋敷。手前の川は江戸中期に開削された藍場川で、この川の水を敷地内・屋敷内に引き込んで家事に使えるようになっている。

松下村塾は、吉田松陰の実家杉家にある私塾で、その塾生として伊藤博文高杉晋作山県有朋久坂玄瑞ほか数多の著名人を輩出した。

f:id:sobataro:20160312213535j:plain松下村塾。杉家にあった小屋を改修して使ったとかで、かなり小さい。

松下村塾が「産業革命遺産」に入っていることを当初は疑問に思っていたのだけど、実は吉田松陰は、工学教育に関する先駆者というべき存在だった。吉田松陰は「学校を論ず、付けたり作場」という論文 (現代語訳) において、

  • 学校を作り、出身や身分を問わず優秀な者を集め、兵学、農学、暦学、算術、天文地理などさまざまな学問を自由に学ばせること
  • 学校に作業場を併設し、座学だけでなく実技も重視すること

を主張している。これはすなわち科学技術 (science based technology) の重要性を説いているということであり、松下村塾が「産業革命遺産」の構成要素とされている重要な根拠のひとつであるらしい。たしかにこれは重要な話で、「頭でっかちの学問バカやただの労働者ではなく、学問に基づく技術すなわち工学を身につけた技術者が必要である」という意味で、現代でもまったく色あせない内容だろう。

萩博物館 (企画展)

これは世界遺産ではないのだけど、萩博物館の企画展「城下町萩のひみつ〜迷宮へのいざない〜」は、まさにブラタモリ的な内容。萩市街には、上記以外にもさまざまな史跡や遺構が残っていて、江戸時代の古地図だけで市内観光ができる程なのだけれど、これはなぜか、というテーマの展示。その答えの概要としては、

  • 萩市街は江戸時代に毛利家によって開発され、
  • 明治維新前の藩庁移転によりその後の大規模な開発が行われず、
  • 明治維新後の夏みかん栽培により旧武家屋敷がそのまま残り、
  • 鉄道 (山陰本線) 敷設時には萩市街の三角州を迂回する形で鉄道が敷かれ、
  • 運河や堤防の築造によって町が大規模な水害を受けず、また壊滅的な地震津波もなく、
  • 太平洋戦争時には米軍の攻撃目標とされたものの、優先度が低かったため戦災をも免れ、
  • 戦後の開発時も旧市街から外れた低湿地 (もと田畑) に留まった、

という、多くの要因が関係している、ということだった。

感想

萩は本当にいろいろと見どころのある街で、世界遺産以外にもいくらでも見どころがある。今回は2.5日くらい萩周辺の観光にあてて、とくに萩市内はレンタサイクルで1日かけて回ったのだけど、まだまだ行けなかったところが多く残っており、またそのうち行きたい。

産業革命遺産という観点からは、吉田松陰の工学教育思想が思わぬ収穫だった。上記の論文「学校を論ず、付けたり作場」は至誠館 (松陰神社の宝物殿)に展示されていて、入館時には「この狭さで入館料500円はちょっと高くないか」と思ったのだけど、これだけでも十分もとが取れたと思う。また、吉田松陰という人がかなり潔癖というか高潔な人であったというのもよく分かった。尊敬に値する人物だと思う。

一方、萩反射炉や造船所跡、大板山たたら製鉄所跡については、一般人ウケが大変悪いらしかった。自分は事前知識があり、また科学技術史に興味があるため楽しめたのだけど、そのへんに興味のない人が「世界遺産だから」というだけで見に行っても、あまり楽しくはなさそう。とくに造船所跡はまだ主要部分の発掘調査が行われていて、説明書きや展示が著しく不足しているように思った。萩の史跡はどこも無料で説明をしてくれるNPOの方が常駐していて、説明を聞けばある程度楽しめるかもしれないけど、追加でちょっとした資料館を作ったり、主要な遺構 (たとえばたたら製鉄のふいごとか) を復元したりしてもいいと思う。

全体的にはとても楽しかった。江戸末期〜明治初期の歴史に興味のある人や、産業革命期の科学技術史に興味のある人は、ぜひ萩を訪問するとよいと思う。

参考文献

  • 世界遺産登録記念企画展 明治日本の産業革命遺産と萩」萩博物館
  • 松下村塾 吉田松陰と塾生たち」萩まちじゅう博物館出版委員会
  • 記事中の各地点における配布パンフレット類

*1:ちなみにペリー来日が1853年、明治維新による大政奉還が1867年